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宗 教  と  は

  

 相手が納得しない理由と正当性のない利を力で得たり、明らかな理由もなく他人を否定すると、

 形を変えて不幸な原因として戻ってきます。

 正当性のない心に向けられた不快感な念『怨念』をとるために得た利を使い果たしてしまうのです。

 歴史を見ると一朝の夢は沢山あります。

 あの頃は良かったです・・・。

 自分を守ることは容易です。

 

 恨みは、その人が一番苦しむように形を変えて周囲の人達に出てきます。

 宗教では、『因果応報』と言います。

 

 人は、自分を中心に「自我」を考える性質を持つので、私は悪くないと言います。

 心の中にある見えない怨念を感じるとき、心が無意識に反応して言葉や行動に暴力性として出てきます。

 それに気が付かない限り心の安らぎを得ることはできません。

 それらの原因を創る行動性は、今世に生まれて50年や100年足らずの中で作られたものではなく、

 前世と言われる永い時間によって作られます。

 

 肉体の五感に物事が感じられるように、相対する念「思念」も心の目で観ることができます。

 心の中にある思いは、五感を通さないで心の目で観得るのです。

 その体験は、宗教の悟りといわれる意識を持っている人に加持をされると、目を閉じていても、

 脳が反応して五感の目で見ているように観えます。決して想像なんかではなく、実際の体験として観えます。

 キリスト教のステンドグラスの色彩は、それらの宗教的な体験を後世の人達に解りやすくした方便として

 残されたものです。

 段階的な宗教体験の過程は、仏教の言葉で六神通力と呼ばれています。

 これらは、見えたような気がするなどの曖昧なものではなく、心が肉体に明らかに反応させます。

 宗教とは、そのような心の動きを理解し、解消するため発展してきたのです。

 その真実は、教典や仏教建築、造形の中にも残されています。

 

 祈り加持祈祷とは、相手の心の中にある怨念等の不幸を作り出す原因に心を同調させ、

 消し去ること「供養」を言います。

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